愛されるブランドには、長年育まれてきた物語があります。
食卓に健康なおいしさをお届けする協同乳業のブランドにも、
豊かな自然の恵みを損なわずありのままに伝えたいという
多くの人々の想いが、幾重にも重なり合い綴られています。
進化し続けながらも、真に価値のあるものは大切に守り通し、
今日まで黙々と語り継がれてきた協同乳業の物語。
その1つ1つに込められた想いをシリーズでお伝えします。
協同乳業物語 07
アイスを食べ終わり、バーに「ホームラン」と焼印があればもう一本当たる!そんな楽しさを持った協同乳業ならではのアイスクリームバー「ホームランバー」が誕生したのは、東海道新幹線開通や東京オリンピック開催の4年前、日本が高度成長に湧き始めた1960年。その後も長く愛され、2020年には誕生60周年を迎えたロングセラー商品である。
協同乳業物語 04「食生活を彩る商品開発」でも少し触れられているが、この「ホームランバー」にはもっと様々な物語がある。今回は、改めて誕生前夜から成長のあゆみご紹介したい。
話はさらに1955年にさかのぼる。
終戦後10年。我が国の生活にもようやく豊かさらしきものが芽生えてきた時期。
「アイス」というものもちょっと贅沢なおやつとして徐々に一般的なものになろうとしていたが、それはまだ氷菓の「アイスキャンディ」のことであり、「アイスクリーム」は特別なところでしか食べられない高級品であった。
そんな「アイスクリーム」をもっと手軽に食べられるようにしたい、という思いから、協同乳業はデンマークから棒状のアイスクリームを製造できるマシンを国内で初めて導入、「アイスクリームバー」として発売した。
当時の価格は1本10円。
当時、主流のアイスキャンディは1本5円、カップ入りアイスクリームは1個20円。
絶妙な価格設定もあり「アイスクリームバー」は大ヒット。
とはいえ、国内初のため国衛生当局の許認可取得なども難航するなど、障害を乗り越えてのヒット商品誕生だった。
ユニークだったのは製造工場。
なんと、当時の東京日本橋の本社ビル1階に、ガラス張りのアイスクリームバー工場を置いたのだ。
通りすがりに見学もできるためたちまち大きな話題に。もちろん子どもたちにも人気のスポットとなった。
しかし、我が世の春はいつまでも続くというわけにはいかなかった。
手狭な都心の工場の上、マシンの生産能力が追いつかないほどの大ヒットだったため、東京保谷(現在の東京都西東京市)の新工場に移設するも、競合他社の激しい追い上げに遭い、次第にその勢いは陰りを見せ始めたのだ。
「アイスクリームバーの競争力を再生せよ!」 社内の至上命題となった。
そこで有力だった案は、60mlだった容量を70mlに増やすという増量戦略であった。
しかし、そもそもアイスクリームバーは「角張っていて子供には食べにくい」という市場の声もあり、その声を肌で知る営業責任者は、増量によりさらに食べにくくなると猛反対。
ただ反対はしたものの、それに替わるアイデアに行き詰まっていた時、たまたま懇意にしていたアイスクリームバー用スティック納入会社の社長から聞いた一言にひらめきを感じる。
「宣伝のためスティックにブランド名を焼印しているメーカーがある」というものだ。
「焼印・・・? 人気のあるものを組み合わせて何かキャンペーンが打てないか・・・そうだ、野球だ!」
当時人気が急上昇していた野球を生かせないか?
そうして生まれたアイデアが、当たりくじ付きアイス。食べ終わってスティックに「ホームラン」の焼印が押されていれば、その場でもう一本プレゼントというものだ。
そこまで出てきたら、「満塁ホームランなら豪華賞品」「三塁打なら・・・」とアイデアは芋づる式に湧いて来る。
パッケージには、新進気鋭のイラストレーター和田誠氏による野球帽をかぶった少年「ホームラン坊や」を採用。
そしで販促告知では、当時、読売巨人軍に入団前、立教大学野球部で大活躍中、野球人気の代名詞ともなっていた長嶋茂雄氏をイメージキャラクターにと口説き落としたことで、全てのお膳立ては整ったのである。
そうして誕生した「ホームランシリーズ」は、1960年1月に発売、そして3月には長嶋氏のポスターを全面に出した当たり付きキャンペーンを開始。長嶋氏のポスターは店頭から盗まれ、工場では24時間稼働でも生産が間に合わず、商品出荷待ちのトラックの行列ができていた。狙いを上回る大ヒットだ。
その余波で、「アイスクリームの名糖」のブランド力も強化され、売上不振にあえいでいた従来の「アイスクリームバー」の引き合いも増加し、アイスクリーム業界ナンバーワンのポジションを獲得したのである。
なお、「ホームランバー」という名称は人々からそう呼ばれるうちに定着したもので、1965年に「名糖ホームランバー」という正式名称となっている。
【当時の当たり内容】
「満塁ホームラン」・・・野球盤(ゲーム)などの豪華賞品プレゼント
「ホームラン」・・・店頭でもう一本プレゼント
「ヒット 1塁打、2塁打、3塁打」・・・4塁打集めるともう一本プレゼント
この成功を見て、再び他社の追随がより激しくなった。
追われる立場の「ホームランバー」の命題は、そんな中でいかに飽きられないようにするかということとなり、次々に時代にマッチしたキャンペーンを打ち出していった。
そのカギを握っていたのは「満塁ホームラン」に関連した賞品やキャンペーンである。
当時の賞品やキャンペーンをいくつか挙げてみると・・・
1960年 野球盤ゲーム
1966年 宙返りレーシングカーセット
歩くお話人形ローリーちゃん
1968年 人気アニメ「マッハGO!GO!GO!」とのコラボ
1970年 月面着陸したアポロ宇宙船シリーズキャンペーン
1978年 UFOグッズ
1980年 スピードガン(投球速度測定器)
などで、話題性や子どもたちの心をつかんできた。
一方で、「ホームランバー」と子どもたちの主要な接点であった駄菓子屋は次第に減っていき、世の嗜好も急激に多様化して夥しい商品があふれるようになっていくと、「ホームランバー」は80年前後から停滞期に入っていく。
価格も30円、50円と上げざるを得なくなっていった。
アイスクリームの販売先として急速に台頭してきたスーパーマーケットやコンビニエンスストアに主戦場が移ることで、戦略の見直しを余儀なくされた「ホームランバー」だが、ひるむことなくロングセラーの意地を見せ続ける。
1982年には、スーパーマーケットで主流となりつつあり、今や一般的になっているマルチパックを発売開始。
バニラ&チョコの10本入りで300円という価格設定。やはり様々なプレゼントキャンペーンも実施した。
また、シリーズのパッケージデザインにも、様々な「ホームラン坊や」が登場 。その後も「レトロパッケージ」など折々に商品バリエーションをアレンジし、ブランドを育て続けた。
2005年には、来たる誕生50年に向け、攻めの姿勢で新時代へ向けてブランド再構築を開始。「ホームラン坊や」も11代目となり、50周年の節目には、プチ贅沢を志向し始めた市場に向け、味も賞品もパワーアップした「プレミアムホームランバー」を投入。往年の「ホームランバー」ファンだけでなく、新しい世代への認知も広まった。
そして2020年。
「ホームランバー」は遂に誕生60年を迎えたのである。
お手頃な価格の銀紙包装。
楽しみ方や嗜好は変わっても、当たりくじ付きという付加価値は、時代時代の子どもたちに多くの楽しみを提供し続けてきた。
その体験は親から子へ、そして世代を越えて。
「懐かしい」だけではない、常に話題を提供し、いつまでも歴史に刻まれるアイスクリームバーであり続けることを目指していく。